昭和40年12月01日 朝の御理解



 いよいよ今年も最後の月、十二月の月になりましたが、云うならば仕上げの月ということと同時にこの一年間の自分の信心、それを確かめる月でもあると思うです。果してどういう様なことが分かり、どういう様な信心が自分の身に付いたか、その結果がだいたい十二月に現れて来る。一年中の締めくくりのところに現れて来る。ですからま過去の十一カ月のことを例えば思うて見ますと。
 あれもでけなかったこれも成就でけなかったけれども、せめてこの十二月だけでもひとつ目の詰まった信心をさせて頂いて、出来てないところは見直し聞き直して頂いておかげをどうでも頂かなければならない実際的な月なんですね。有難いと言うておるけれどもそれはみんな有難いと言ってるんですよね。本当に今日も健康のおかげを頂いて、御用にお使い回しを頂いて有難い。もうこれはもう朝晩申しよる。
 昨夜の御祈念に久留米の佐田さんが参っておられました。佐田さんがそれを言うとられるんですね。昨日の朝、朝方、恵介さんと云う一番下の子が四つでしょうか、いたずら盛りの子供がおります。大変おかげを受けた子供で、本当に神様に頂いた子なんですけども、特に頂いたといような感じの子なんです。夜中にポカッと床の上に起きてですね、僕は今、深い川に落ち込みよったけれど風がプーッと吹いてきてから。
 は今ここさん吹上とっとじゃろが、吹上っち云うてから大きな声で、両親びっくりしてから起きた。恵介さん恵介さんち、夢を頂きよったらしいですね。何か深い所に落ちかかりよって、そしたら風が吹いてきてから、僕は今ここさん吹上られたつじゃろが、吹き上げられたつじゃろがち大きな声で床の上に立ってから言うそうです。それで夫婦の者が本当に子供ながらにでも子供でもこうしてお守りを受けて居ると云うことがお父さん分かるち云うてから家内が申します。て云うてから昨日言うんですね。
 お夢の中にでもお守りを頂いておる、御守護を受けておる。明日お参りしてから御礼をして下さいて、家内が申しますから。それは何遍もおかげを頂いておるですもんね。まだ日田におられた時分に日田の川に、の崖に落ち込んでからこげんしてぶらさがっとったち。二階の屋根から布団と一緒に落ちかかっとった。お父さんと一緒に崖から自動車で落ちたり、この子はもう大体大変悪い子ですけれどもいたずらがひどいんです。
 だけどその今日も平穏無事で子供達もおかげ頂いたと。だから私が申しましたんですよ。それは佐田さん本当にそういうおかげをどの位頂いとるか分からん。それこそ神風にパアッと吹き上げられ、安全地帯に吹き上げられる。これはそのそういう怪我するとかしないとかそういうだけのことではなくて、もう一事が万事にこういうおかげを受けておるのであり、神様の御守護を特別にこうして受けておるとであろう。
 その御守護を御守護と知っておる様であるけれども、果してどれだけ知っておるであろうかということ、分かっとるであろうかと、又それを現しておるであろうかと。いいえもう、そのことだけなら私は晩御祈念の時には必ず「今日も健康で御用がでけました、子供達も本当に無事に怪我ひとつしませずにおかげ頂きました」と云うことは毎晩申しよります。サアー申しよるけれどもやっぱり御礼不足、喜び不足。
 只言いよりますと云うだけではいけん、と云うことです。そこんところを分からして頂かなければならん。これもやっぱり昨夜の御祈念に参っておられます。堤さんとこの長男の清さんが参ってお届けをしておられるんです。御祈念後でしたけれども、御祈念の後にお届けをされるんですね。先生僕はこういう今朝からお夢を頂きました。もう面白いお夢ですけれどもね。豚と相撲を取りよるとこじゃった。
 それこそがっちり四つに組んで豚と相撲取りよるところが、その豚からコロッと投げられたお夢だった。ま痛がなかったばってん、豚から投げられてから気色の悪かち云う様なその夢だったとこう云うんですね。本当に私は思うんですね。昨日の永瀬さんところの奥さんが頂いとるお夢なんかでもそうですが、あの本当に椛目にご神縁を頂いて、椛目にそういうひとつの祈りの圏内におかげを頂いて居ると云うとはですね。
 これは例えば永瀬さんとか佐田さんとかね、堤さんだけのことではなく皆んながこの様な風な思いの中に私共は日々おかげを蒙っておるのあでろうとこう云うことなんです。此処にき不思議と云や不思議でたまらんですね。もう神様がです、もう切にはっきり誰が聞いても御理解と分かるようなです、その事を下さると云うことは如何に神様が、云うならば助かろうとしておられ又助けようとしておられるかと云うこと。
 豚と云えば汚いものの代名詞のように申します。いよいよ自分自身のギリギリ汚いものに毎日取り組んでいくと云うことなんです。それをその取り組んでさえいない人が随分いやしないだろうかと、もうこれで良いように思ってる人はありゃせんだろうか。本当に自分の汚さにヘキヘキする様な汚いもの、それと本気で四つに組んでガッチリ取り組んでです、今日は負けた。
 今日はどうやら勝たして頂いたと云う様に私はなからにゃいかんけれど、神様がその豚と四つに組んでです相撲取ってから負けたコロッと投げられた。痛かなかったねえ確かに神様は痛くないように、いわば投げておられると云うことを感じますです。けれども本当にこちらがそこんとこ分からして頂けばです、例えば怪我させてからでも解らせたい、困った思いをさせてでも分からしたいと云った様な働きその中から感じる。
 と云って一辺一辺投げ殺すごたるひどいことで投げておられずにですたい、もう大抵いい加減に三辺に一辺ぐらい勝たんかいと云った様な感じがするじゃないですか。お互いその豚と四つに組んで本気で私共取り組んでおるだろうか。取り組んでさえいない。これではいよいよ信心にはつまらんと思うですよね。永瀬さんの奥さんが頂いとられるのでもそうです。椛目の御信者さん方に主だった方がみんなおられます。
 私もその中に入っとる。永瀬の奥さんも。そして鬼ごっこをしておるところ、先生が鬼になっておられる。その先生がずうっとその隠れとるとを捜して歩かれておると横を永瀬さんの奥さんの隠れられておるところの前を通られる。みんなが隠れておるち云うわけです。ところが永瀬さんの奥さんは何かもう小便に行きとうて行きとうてたまらんらしいです。けども隠れておられるもんだから、もうとにかくこらえておる。
 そしてから思いよんなさること、早う見つけられたがよかばってんと思いよるとこじゃった。あんまり便所に行きたいもんじゃから。そしたら先生がちょうど私の前を通り抜けて行かれたところを頂いたち。本当に捕らまえられたがよいと思うなら、楽になりたいがよいと思うならです、何故出てこないか、何故出てきてお取次を願わんか、何故お願いをしないか、何故修行をしないか、何故改まらないか。
 なぜ本気で信心を分かろうとしないか、何故かと云うと捕らまえられない、捕らまえてくれれば鬼になる。捕らまえられて初めて自分と云う者が分かるのである。わが心の中の浅ましさと云うものが分かるのである。人ばっかりが悪いごと思いよる。子供が悪かと思いよる、主人が悪かごと思いよった。あの人があげんじゃから、こげんなると云った様な思い方がです、あの人でもなからなければこの人でもない。
 鬼自体が自分の心の中にあったんだという様な御理解を頂いておられます。その三人三様そうした御理解を御神夢と言わなければ思わなければおられない様なおかげを頂いとられるがです、そういう御守護の中に私共はやっぱりこの十一カ月間おかげを頂いて参りましたと云うことにおきましてもです、元日にみんなが本当に生き生きとした今年こそはと云うような気持ちで万事取り組まれた。
 特に信心は今年こそはと云う様なおかげを頂かれた。椛目の大きな祈念の節の年ではある。どうでもこの事はせめて改まらせて貰うて記念祭の記念にこれだけはお供えしようと思うとったけれども、それもでけなかった。そしてもう今年最後の十二月を迎えた。それは確かめてみんでも自分ではっきり分かって居る人もあろうけれどもいよいよ確かめてみて、ね、いわばその締めくくらせて頂く。
 せめて今月だけでも本気で汚いものに取り組ませて頂き、只辛抱してるだけでなくて自分が実際出てきてです捕らまえられる。いわばおかげを頂き、いいえもう日々朝参りもさせて頂いてから日々のおかげを受けて居る事の御礼は申させて頂いとりますと云うけれども、只言うても間違い無いのだけれども、言うておる事がどの程度にどの深さに分かっており、それを私共が現しておるかと云う事になって参りますとです。
 神様が佐田さんの子供さんを通してから教えておられます様に、毎日平穏無事で有難い、これだけは毎日神様に御礼を申しよりますと云うだけではなくてですね、それをもっともっと深く広く分からして頂かなければいけないと云うことを思います。今年もそうした意味で最後の月に入りました。いよいよ自分のこの十一カ月の信心を一つ振り返ってみてた、確かめてみて、成程まあ自分は汚いものなら汚いものに取り組んできたけれども、何時も負け通しであったと。
 この十二月こそはひとつせめてその汚いものと取り組んでです、今月こそはひとつ勝たせて頂かなければです、と云う様な気持ちをもってこの十二月を頂きたい。そしてその結果をです、成程その十一カ月間と云う信心のことをです、振り返れば相済まん一年間であったけれども、そういう様な信心に於てです、そういう信心をさせて頂いてです、どうぞ見直し聞き直して頂きましてから。
 どうでも結論として頂くところの十二月の締めくくるところのおかげをです、頂かして貰うて新しい又年を迎えさせて貰わなければならんのです。だからその見直し聞き直しさせて頂く意味合にお詫びさせて頂いてお詫びを聞き届けて頂く意味合に於てもです、今月こそは本気でそこに取り組んでいかなけりゃならんねえ。どうぞ、本気で先生に捕らまえられる、如何にも窮屈な様であるけれども。
 如何にも捕らまえられたら手も足も出らんごとあるけれども、捕らまえられて自分で初めて鬼の自覚がでけるのである。只撫でられても痛くない。お気付頂いても大したことはない、だけではいかん。本気で取り組まさせて頂けば必ず実を云うたら勝つことになっとるんです。本気で取り組んだら。それを本気で取り組んどらんからコロッと投げられておるのである。この事は私は私自身そのことを思うんですけども。
 本当に本気になりゃ必ず勝つ語となってるとですよこれは。それを何時もコロコロ投げられておる。して又失敗しました又御無礼になったとこう云う様なことでは何時まで経ってもうだつがあがらんのですから、この十二月こそはひとつ勝ち通しに勝たして頂けるくらいな意欲と云うものを持たなければいけん。昨日総代さんの高芝さんからお届けがあった。これなんかはちょっと細やかな意味のものではなかろかとこう思う。
 親教会に何時も親先生にのお供をさせて頂きよったけれども、あることから御無礼して長くなっとりますから、せめてこれからは一日の月次祭十日の月次祭は関さんの何時も車で送っておられるけれども、その二回だけは私が送らせて頂いて私も親教会の月次祭におかげ頂きたいと思うと云うお届けがあったんですけども、それは恐らくこの御無礼されてからこの方思い続けられたことであろうけれども。
 やっぱりそこにたったそのくらいのことでも踏ん切りを付けなければならないと云うことですね。十二月といや商売の忙しい月ではありますけれども、そこんとこをやはり押して進ませて頂く。本気で取り組ませて頂くところに、いわばこちらが投げられてばっかりおるのじゃない、いわば投げられる、いや本気になりゃでけんことないことをです、本気にならんために何時までも成就しない。
 何時も投げられ通しでおるという様なことでは相済まんことだとこう思うですね。どうぞ十二月はそういう様な意味でそういうところにひとついよいよ自分の信心を確かめてみる。そして自分の信心をこの十二月に締めくくらせて貰うてそこんところに免じて神様にも見直し聞き直しして頂いてからおかげを頂きたいと思いますですね。
   どうぞ。